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株式会社石井製作所 Ishii Manufacturing

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沿革

1960年(昭和35年) 創業者石井通雄が東京都江東区深川にて食鳥処理機械の研究開発を本格的に開始
1960年(昭和35年) 調理鶏等の脱毛機を開発(実用新案登録708190号)
1960年(昭和35年) 脱毛機用抜毛子を開発(実用新案登録700765号)
1961年(昭和36年) 一代目代表取締役社長に石井通雄が就任し、東京都江東区深川に株式会社石井製作所を設立する
1961年(昭和36年) 「鶏等の脱毛用湯漬機」の開発(実用新案登録736565号)
1961年(昭和36年) 「食鳥抜毛機」の開発(実用新案登録736568号)
1961年(昭和36年) 「検卵器」の開発(実用新案登録700391号)
1963年(昭和38年) 日本で初めてのライン形式である生鳥ライン・解体ラインの開発・販売を開始する
1963年(昭和38年) 「鳥毛抜取機の抜取具」の開発(意匠登録222036号)
1963年(昭和38年) 「鳥毛抜取機」の開発(意匠登録223650号)
1963年(昭和38年) 「脱毛機用湯漬機」の開発(意匠登録222037号)
1964年(昭和39年) 「掛吊具」を開発(実用新案828475号)
1964年(昭和39年) 「食鳥移動装置」の開発(実用新案822976号)
1964年(昭和39年) 「脱毛機用抜毛子」の開発(類似意匠登録222036号)
1964年(昭和39年) 「鶏等の脱羽毛用湯漬機」の開発(実用新案登録746464号)
1966年(昭和41年) 「食鳥ハンガー」の開発(意匠登録263425号)
1971年(昭和46年) 「玉ねぎの自動皮剥き装置」の開発(特許出願昭49-6112号)
1974年(昭和49年) 「おろし機」の開発(意匠登録385900号)
1983年(昭和58年) 事業拡大に伴い本社を拡張する
1997年(平成9年) 二代目代表取締役社長に石井晧之が就任
2011年(平成23年) 創業50周年をむかえる
2011年(平成23年) 事業拡大に伴い千葉倉庫を取得
2013年(平成25年) 日本初上陸の英国製脱羽毛機「PLUKA プラカ」の輸入総代理店契約をDixi Product Design Ltd社と締結し、販売開始
2013年(平成25年) 「ドラムピッカーEシリーズ(脱羽毛機)」の販売開始
2014年(平成26年) 三代目代表取締役社長に石井雄一が就任
2014年(平成26年) 山形県内で初の本格的な鶏肉工場の加工設備を一括受注する
2014年(平成26年) 「オールステンレス製 オーバーヘッドコンベアー・シャックルウォッシャー」の販売開始
2014年(平成26年) 当社社員が東京都より「東京ものづくり若匠(東京プレマイスター)【溶接】」に認定される
2015年(平成27年) ドイツ製溶接用三次元定盤を導入する
2017年(平成29年) 2月3日に東京消防庁より「救命講習受講優良証」の交付を受け、応急手当奨励事業所に認定される
2019年(令和1年) 6月はばたく中小企業・小規模事業者300 社・商店街 30 選 受賞

── 会社の歴史 ──

起業したとき、まず一番初めに取り組んだことは、人手で一羽一羽むしっていた鶏の脱羽毛の自動化でした。しかし、当時は、ヒントになる機械もなかった為、身の回りにあるものを使って手探りで試行錯誤していたそうです。今で言うモトクロスオートバイを上下逆さにしてタイヤの凹凸に鶏に当てて、脱羽毛を試したとき、意外なことに抜けがうまく行ったそうです。それをヒントにして作られたのが脱穀機のような機械で、回転体に脱羽毛ゴムを付けたものが一番初めに製作された初期の脱羽毛機になります。これを石井通雄の父の鳥肉店でテストを繰り返し、商品化出来るまでこぎつけ、近隣の鳥肉店に紹介したところ、手間が掛かっていた作業が省けると評判が評判を呼び、瞬く間に広がっていったそうです。特に脱羽毛ゴムについては、力学的性質に着目して研究開発し、当時としては初めて扁平楕円形状の脱羽毛ゴムを販売し、他社製品に比べて3~5倍の耐久力があり、鳥肌にも優しいとお客さまから大変好評を頂いていたそうです。

 次に、鶏の羽毛を取り除くには、その前に湯に漬けふやかすような工程が必要で、またこれも水気を含んだ鶏を出し入れする作業は暑くて重労働で何とかこれも機械の力で何とか出来ないものかと考えておりました。それを可能にしたのが、コンクリートミキサー車をヒントにして作られた1型湯漬機というものでした。これは湯漬機を正回転すると投入された鶏が湯のなかで攪拌されてまんべんなく浸かり、逆回転すると鶏が外に排出される仕組みで飛躍的に脱羽毛作業を能率的にさせ、自動化がまだ当たり前でなかった当時では革新的な商品でありました。
次第に、外国からも食鳥処理機械が日本に輸入されてくることもありましたが、当時はまだ希少で、かなり高価なもので、とても簡単に導入できるようなものではありませんでした。しかし、石井通雄は、日本の技術力を活かした製品を積極的に開発して行かなければ次第に外国の食鳥処理機械に取って代わられてしまうと危機感を強めたそうです。そこで、国産にこだわったモノづくりで、製品のバリエーションを増やしていきました。マイナーチェンジを繰り返してはおりますが、当初の設計を受け継いでおり発売当初から基本的な構造は変わっていない創業当時からのロングセラーであるオートキラー(自動放血機)AK-5900やドラムピッカー(脱羽毛機)MI-1~MI-5です。

そして、1963年に日本で初めてのライン形式である生鳥ライン・解体ラインの開発・販売を開始しました。現在では、一般的な処理方法である工場内にレールを張り巡らし、そのレールに鶏を懸けるハンガー(シャックル)を循環させ、流れ作業で食鳥処理を行うという能率を倍増させる画期的な商品でありました。ライン形式が本格的に導入される前には、既製品のオーバーヘッドコンベアーライン(ツバキ・ライトフリー)を用いて試行錯誤していましたが、鉄を多用していた為、劣化が激しく、故障も頻繁に起こってしまい、アイデアとしてはよかったのですが、実用化するにはまだまだ問題があり、大変苦労したそうです。そこで、自社で一から開発をし、耐食性に優れてなおかつ軽量なラインを開発し売り出したのがライン形式実用化の始まりです。

当時は、石井通雄自らが、北は北海道から南は九州まで車で駆け回り、日本全国に食鳥機械をご紹介し、お客さまとのつながりを大切にしておりました。その時、築かれたお客さまとの信頼は、今も石井製作所に受け継がれております。
時代の流れは、より一層自動化の方向へ向かい、より便利な食鳥処理機械が求められるようになって参りました。石井通雄が42歳のとき、より優れた機械を製作するために、産業機械の先進国であるドイツ・オランダ・デンマークに視察に行ったそうです。この時、「確かに海外の機械は合理的で無駄がなく、デザインも優れてよく考えられている。何とか日本独自の技術でより優れた製品を作れないものか」と今の石井製作所の理念に繋がる刺激を受けたそうです。

── 対立するから成長できる ──

【社長】お客さまの信頼は、機械自体の性能がいくらいいものであっても、その機械を今後長い目で修理やメンテナンスが出来る会社があるという安心感がなければ維持できないと思っております。当社の社風も同様で、なるべく早めに若い後継者に技術・ノウハウを伝承するという考えがあり、その中で、先代社長からお客さまの信頼と安心を維持するという責任とともに社長に就任致しました。兄弟で経営することは、時には意見が対立することもありますが、全く違う分野で働いていた弟の意見も新鮮で気づかされることもあります。お互いの足りない部分を補いながら二人三脚で経営に活かしております。
【副社長】
兄である社長とは20歳も年齢差があり、後継者がおりませんでした。私は、もともと生命保険会社に総合職として入社し、個人・法人部門で勤務しておりましたが、前職で培った経験も活かして、ぜひ代々続いている会社をより一層長く繁栄させていく一助となればと思い、前職を辞めて、家業に入りました。経営するうえで、仕事であるので楽しいこともあれば辛いこともありますが、兄を支えてゆきたいと思っております。